Vol.13-2
 
国際災害医療の将来
山本 保博

 

 我国の本格的な国際救急医療協力は1979年12月から始まったカンボジア難民救援医療であった。その頃,欧米諸国から「日本の医療援助には人の影が少ない」とか「金や物は出すが人は出さない」と指摘されていた。カンボジア難民医療援助の反省も加わり,1982年にJMTDR(国際救急医療チーム)が発足された。この組織は,JICAが事務局となり,医師,看護婦,調整員の3職種で構成され,各個人がボランティアとして参加し,派遺時には政府チームとなって行くことになっている。当初は全体として200名程度の登録者であったが,1994年には500名を超えている。このJMTDRが本格的に派遣されたのは,エチオピア干ばつ被災民救援医療で,1984年12月から翌年3月までの4カ月間に延べ32名を要して行われた。カンポジア難民救急医療とエチオピア干ぱつ救援医療との違いは活動開始の速さであった。
 前者の場合,難民がタイ国境に逃げ出してから3カ月経っており,後者の場合は,被災民が都市に集中しだしてから2〜3週間で現地に入っている。この様なことから救援活動を開始する時期が速ければ速いほど,被災地の傷病者や現地の人々の期待に応えられ,成果の上がることも分かった。
 1985年8月に起こったメキシコ地震では,地震発生後39時間後には,JMTDRチームは現地に到着し2遇間で帰国したという足の速さが備わってきた。しかし,このメキシコ地震の経験から地震などの大災害時には医療チームだけでなく,がれきの下に埋もれている生存者を捜索,発見し,救出することの出来る救助チームの必要性が指摘され,1987年,災害後の復旧復興を目的とした専門家チームを含めた国際緊急援助隊(JDR)が発足した。JMTDRはこの救援隊の3本柱の1つの医療チームとして位置づけられた。
 92年の国際平和維持活動協力法が成立すると同時に国際緊急援助隊法も改正され,自衛隊医務官等も国際緊急援助隊医療チームに参加することとなった。その上国際緊急援助隊は主として自然災害に出動するという枠粗みが作られ,その後は難民に対しての出動がなくなってしまった。かつてはリベリア難民,イランのクルド難民にJMTDRを派遣するなど難民も対象に含めていた。
 94年8月までにJMTDRチームの派遣は21回で,1チームの構成は医師3,看護婦6,調整員3の12名を1単位とし,現地での医療活動としては,入院30名,外来1日100名程度を目的として活動に従事した。医療活動に必要な資機材については,最近,医療活動用空気誇張テントやインマルサット衛星を利用した無線通信機等も用意され,装備も次第に充実されつつある。しかし,医療活動に直接必要な医療機材を含むそれら資機材をすべて携行していくことは民間航空を利用している現在では不可能であるため,現地での人手や国際機関からの供与を考えながら準備がされている。今後この種のlogistic supportの解決策として日本政府専用機や自衛隊輸送機の使用も考えなければならないだろう。
 ここで我国の国際災害医療援助の困難性について考えてみたい。1992年12戸,インドネイシアのフローレンス島を中心に,襲った地震と津波災害の場合には,24名の医師,看護婦,調整員がいつでも出動できるよう準備を整えたにもかかわらず,結局被災国政府から我国に医療援助の要請か出ず,派遣には至らなかった。国際緊急援助隊法に基づく医療活動等の国際緊急援助活動は被災国政府あるいは国際機関からの要請によってのみ出動が可能である。それ故,要請が出ない場合には,いくら医学的,人道的に派遣の必要性があっても出動することができない。また,JMTDRが派遣されたにもかかわらず,最も患者の多い適切な時間内に現地にはいれず,救援活動が満足に出来なかったことも経験している。この解決策としては事前に災害多発国との間に2国間協定を結び,災害時には要請を待たずとも出動出来る体制を作ることの必要性も指摘されている。
 JMTDR出動の減少の原因は難民にある。内線や部族抗争の末に生まれたルワンダ難民やモンザンビーク難民のような事態においても自然災害時と同様に国際緊急援助隊が出動できるよう,早急に法改正を検討すべきである。総理府や外務省は,この種の難民医療について国際平和協力法の「人道的な国際救援活動」規定で対応したい,と考えているようだがJMTDRのような災害医療に対する頭脳技術集団を別個に組織することは不可能であろう。また,JMTDRの登録者を一本釣りするようなことではJMTDRの崩壊につながってゆく。それ故,国際平和協力法の3年後の見直し時期である95年8月を待たずに難民医療をJMTDRの枠内にもどすよう法改正を早急に考えるべきである。
(日本医科大学付属 千葉北総合病院 院長)


日本自然災害学会